ブログ「私の古文書学習法」保管箱 2016

なぜそう読めるのかといわれても・・・

 

 「日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法」

   (日本史史料研究会:監修、苅込一志:著、吉川弘文館)

                                 2016年4月4日月曜日

 

 古文書仲間から勧められた一冊。

「日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法」(日本史史料研究会:監修、苅込一志:著、吉川弘文館)

「帯」には「変体漢文を訓読するための、はじめてのガイドブック。 なぜそう読めるのか?」とあった。吉川弘文館が「変体漢文を訓読するための、はじめてのガイドブック」の文言をキャッチコピーとするのだから、たぶんその通りなのだろう。古文書の解読に関して文法的なアプローチが無かったとは考えられないけれども、「なんだかなあ・・・」である。漢文訓読法は日本に漢字が導入されて以来、研究され学び続けられて来たと思うのだけれど、これが「変体」となるとろくな研究もされずに来たということなのだろうか。にわかには信じられないことではある。

 日本語を文法的な観点から研究するのは、日本語が大きく変化していると気になり始めてからだと思うのだが、「変体漢文」が空気のように存在する時代にあっては、それは研究対象とはなりにくかったのだろう。現代の僕らは「くずし字」を読むことに苦労しているけれど、江戸時代の人達はさほど苦痛なく読んでいたと思うし、「歴史的仮名遣い」も日常語として存在していたはずだ。それらの全てが、今日では外国語を学ぶのと同じように、初歩の段階から学ばないと理解できなくなっている。「変体漢文」の訓読法も初歩から学ぶことが必要な時代になった、と学者達も考えはじめた、というこのなのだろう。

 「変体漢文」は今の感覚でいえば「和製英語」のようなものだろうか。「和製英語」は、正統な英語表現からはズレているものの、日本語の文脈の中で便利に使われている。「変体漢文」も中世頃までは、まだ漢文の体をなしているけれども、私達が親しんでいる「古文書」ともなると、日本語の文脈の中に申し訳程度に漢文的なものが混じっている程度となっている。「変体漢文」はすでに日本語なのだ。

 思えば、文法の苦手な僕にとっては、古文書を読む際に文法を意識しないで済んできたということは「幸い」であった。僕が読んで来た古文書は「変体漢文」を意識しなくても読めるものだったからだ。江戸時代後期の「地方文書」のような記録類や証文類を読む限りにおいては、ことさら文法を意識して読む必要は無い。「くずし字」が読めるようになり、文例をある程度蓄積すれば何とかなったのだ。訓読の部分は解説書等の「ルビ」を見ては「このように読むものなのか」と丸暗記に近い形で覚えてきた。

 本書にはこれまで見たことの無い語句がゾロゾロ出て来て来る。勉強不足を思い知らされもするけれども、逆にいえば、困った時には本書を見れば何とかなるということでもある。本書を「武器」とすることで、モヤモヤしていた部分が少しはスッキリしそうな気がする。